努力は報われる? 5
世間は成功した場合にのみ〈辛抱〉を評価するのであって、不成功に終わると、いかに忍従の人生を送っていても評価しない。
そして成功するためには運もさることながら実力が要る。
実力プラス辛抱が社会のルールです。
最近はこのルールがあまり通用しなくなったので世の中がおもしろくないのです。
誰でも楽に稼げる方法!などと言うフレーズは巷に溢れています。
インターネットビジネスがその良い例です。
ちょっとは疑う心も持った方がいいのでは・・・?と思う最近です。
世間は成功した場合にのみ〈辛抱〉を評価するのであって、不成功に終わると、いかに忍従の人生を送っていても評価しない。
そして成功するためには運もさることながら実力が要る。
実力プラス辛抱が社会のルールです。
最近はこのルールがあまり通用しなくなったので世の中がおもしろくないのです。
誰でも楽に稼げる方法!などと言うフレーズは巷に溢れています。
インターネットビジネスがその良い例です。
ちょっとは疑う心も持った方がいいのでは・・・?と思う最近です。
人間は僥倖をもとめだしたら堕落します。
ガマンをやめたら進歩しない。
ただ辛抱論でまちがえられていることがあります。
物事はただ辛抱さえすればよい、というものではありません。
実力がありながら、所を得ず、じっと時を待っているのが〈辛抱〉です。
実力がないのに不遇だとあえいでいるのを自業自得といい、実力を養う努力を放棄し、ひたすら幸運をねらうのをギャンブラーといいます。
地道に実力を養い、時到って成功するのでなければ辛抱の意味がないのです。
悪いことに、成功したケースは、辛抱もさることながら、辛抱以外の要素のほうが目立つことです。
横綱は力強い投げ技だとか、野球の投手は華麗なピッチングなどとか、どうしても表芸の能力が目立つ。
辛抱したから成功したのではなく、強いから勝ったのだと評価されやすい。
また辛抱をバカらしく思わせるものにテレビタレントの存在があります。
たいした努力もしていないし、歌も芸もうまくないのに一躍スターになります。
こういうのをみていると、地道にコツコツと芝居や踊りの稽古をしているのがバカらしくなります。
国会議員は偶然だったそうです。
また辛抱していたのも結果であって、しかたがなかったというほうが実感にちかい。
辛抱など、前途に明るさがあれば誰にでもできる。
じっと辛抱していさえすれば、かならず成功するとわかっていたら、だれでも辛抱するでしょう。
かならず成功するとはかぎらないから人間は焦るのです。
〈辛抱〉の場合、よく引き合いにだされるのは成功した例ですが、人間社会にはじっと辛抱しながら報われないケースのほうがはるかに多い。
それを見ているから、なかなか辛抱できないのです。
人間辛抱だとよくいわれます。
辛抱し奈ら、かく成功したのだと、自叙伝などは辛抱を成功のノウハウにしているものが多い。
はたしてそうでしょうか。
「八木さんは三菱肇時代、じっと辛抱したから、今回国会議員の栄冠を得られたのだ」と、しばしばいわれました。
いかにも、三菱商事時代、出世競争の不遇に耐えて、じっと辛抱していたから、国会議員の栄冠を得られたのだ、という人生訓的な解釈なのだが、国会議員が栄冠なのかどうかは別にして、じっと辛抱したから国会議員になれたとは、かなり実感とは遠い。
じっと辛抱していたことは確かですが、国会議員をねらって辛抱していたわけではなく、また辛抱すれば国会議員になれるものでもいでしょう。
大阪人にとっては腹立たしいことだろうが、「東京」は全国ブランドとなります。
端的な例をあげると東京銀行です。
「東京」銀行は全国ブランド、というより全世界のブランドとして通用します。
現在の大阪銀行には申し訳ないが、「大阪銀行」ではそうはいかない。
大阪あるいは関西の企業は、多かれ少なかれこうした大阪経済・関西経済の地盤沈下、東京一極集中の影響を受けることを余儀なくされています。
私鉄経営のパイオニアで、東急や西武など関東の私鉄の多くが、その経営展開を見習った阪急グループも、いま大阪あるいは京阪神の一ローカル・グループに地位を低下させてしまうか否かの重大な岐路に立っています。
大阪経済あるいは関西経済の地盤沈下が云々されて久しく、いまではもう諦めのような論議すら聞こえてきます。
大阪出身の著名人が、某紙に次のようなコメントを寄せていたこともあります。
「大阪が復権するためには、『大阪』という名前を捨てるのが、いちばんの近道です。
なぜなら、いまや大阪は、単なる一ローカル都市になってしまったし、大阪という名前がつくだけで、すべてダサく思われてしまうようになってしまったから」とはいえ、大阪を復権させるために、「大阪」という名前を捨てたからといって、活性化するという保証はどこにもない。
たしかに多くの人が指摘するように「大阪」というブランドは全国に通用しなくなったし、輝きを失ってしまいました。
電鉄事業にはじまって、百貨店、食堂、映画製作、座館の経営と、小林は手を広げていきました。
その経営手腕を買われて、彼は東京電燈会社の改革に起用されて、東電の副社長に就任しました。
と同時に、東京宝塚劇場を中心とする日比谷の一角にアミューズメントシティをつくり上げました。
大阪の梅田と東京の有楽町、そこに彼はサラリーマン向けの娯楽街が必要と考えたのです。
昭和十五年、近衛内閣の商工大臣に迎えられたが、意見が合わず辞任、戦後も東宝の再建に努め、一方、茶人としても知られ文筆活動もさかんで、昭和三十二年、八十四歳の天寿を全うして、世を去りました。
これまで一流レストランでしか食べられなかった洋食を、三十銭均一で食べさせた一三のアイデアは大当りをとりました。
特にコーヒーつき三十銭のライスカレーは大好評だった。
その頃、一三は百貨店経営について先輩の意見を聞こうと思って、東京松屋の経営者に会って教えを乞うた。
すると相手はすぐ首を横に振った。
「いや小林さん、あなたは電鉄事業に成功なさったそうだが、百貨店だけはおやめなさい。
第一あなたは呉服の知識をお持ちじゃないでしょう。
呉服を知らずして百貨店経営はできません」つまり素人には無理というのです。
当時の百貨店は、客を迎えに行って、高級呉服を主体とした商品を販売していました。
そこで小林は洋品雑貨や食料品を主体とする品揃えをして、呉服に手を出すまいとした。
これがカンカン帽やライスカレーを目玉商品とするターミナル百貨店の誕生となったのです。
こうなれば死ぬも生きるも会社とともであり、事業即人生です。
一三は、先輩の平賀敏を社長に戴いて、自分は専務として経営に当った。
そして神戸線を建設して、大阪と神戸を結ぶ幹線をつくるため、灘循環線を阪神電車と取り合うことになりました。
大正七年、社名を阪神急行電鉄と変更、大正九年に、いよいよ神戸線三十二ニキロが開通した。
一三は、広告文を自ら執筆した。
"新しく開通した神戸(大阪)行急行電車、綺麗で早うて、ガラアキで、眺めの素敵によい涼しい電車"四十七歳となった一三は、経営者としてようやく独創的な手腕を発揮するようになりました。
彼は五階建ての阪急ビルをつくってその二階に食堂を開設、さらに一階を白木屋に貸して、日用雑貨の販売をさせました。
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